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古い手袋


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 重い硝子のドアを押して、遠慮がちに中に入った。足がすうっと沈む。毛足の長い、
すごくいい絨毯だ。見なくてもわかる。
 金ボタンのブレザーを着た、白髪交じりの男がコンシェルジェみたいなデスクに座っていた。

 「あの、メトロの駅員さんにどうしても、と泣きついたらここを教えられました」
 「ははぁん、四つのキーワード、おっしゃったんですね」男は薄い唇の両端をかすかに上げた。
ビブラートの利いた低音に聞き惚れそうになる。それを見透かしたかのように男は目を細め、
ことばを続けた。

 「高価ではないけれど長年の愛着があって新品では代りができないもの
そして、『見つけられるんだったら、なんでもします』、って言ってしまったんですね。
ここへのパスワード、四つともクリアというわけです。で、ものは?」彼はデスクに置かれた
パソコンのマウスにさわり、何かの画面に切り替えた。
 「革の手袋です。失くすはずないんです。溜池山王で座ったときに、はずして膝の上に置いて、
うとうと、として表参道で目を覚ましたら、もうなかった」
 「あぁ、奴らだ。『地底人』の犯行です」
 「チテイジン?」
 「そう。亡霊の一種です。帝都高速度交通営団の時代に、地下を掘るだけ掘って、
適当に放置された工事あとに、住み着いてます」
 「なんだっていいんですけど、どうして私のくたびれた手袋なんて盗むんです?」
 「名残り、とか風情、なんてものは省みない都市計画とか、効率至上主義、
使い捨ての風潮に反発して、アンダーグラウンドな活動をしているインテリ層の霊でして」
彼はキーボードの上に、爪を載せた。端正に切りそろえられ、手入れが行き届いている。
 「はぁ」
 「年季の入った持ち物を人から盗んで、『お金では埋め合わせることのできない
想い出や価値』を思い知らせよう、と連中のマニフェストにあるのです。最近、テレビで
『地デジ』ってしきりに言ってるの、ご存知ですよね。』

 私の手袋と地デジがいったいどこでからむのか、見当もつかなくて黙っていた。

 「『チデジをどうぞ』―をチテイジンたち、自分たちが呼ばれてるのと勘違いして
ぞろぞろ眠りから醒めてしまったらしいんです。いやぁ、まいったのは当局です。
地デジキャンペーンがこんな事態を引き起こしたことを、ひた隠しにしています。
その辺はどうぞ、ものを取り戻したいのでしたら、ご斟酌ください」

 男は体の向きがモニター正面にくるように、椅子に座り直した。ジャケットの袖から覗く
シャツのカフスは、封筒くらいすっぱり切れそうに白く、糊が利いている。

 「とりあえず、所定の手続きをご説明します。まず、秘密保持契約。それに、
嘆願書を作成します。お客さまが、その手袋にどれだけ愛着があったか、どういういわくで
手に入れたか、どれだけ普段から手入れをして、どんなにかけがえのない想い出が
あったのかアピールしてください。その文章に、長年なじんだものの味わいを惜しむ
反省の色が見えて、奴らの心の琴線に触れるようでしたら、失くしものは帰ってくる。
そういう協定になっています。言わば、情の深さのテストですな。私がこの書類を持って、
直接交渉に行きます。おっと、申し遅れました。わたくし、地上界と地底の紛争を
穏便に処理せよとの特命を受けた交渉代理人、JHと申します。では、お名前の欄から・・・・・・・」


「・・・・・・なぁんてさ、チテイジンと取引したらさ、出てきたりして。
十五年愛用してた、私の手袋。イタリア製の」。居眠りしていないか、運転席の夫を横目で見た。

「んなわけないでしょ。だいたい、君は古いものを大切にする、っていうより、
ものの管理が悪い。使ったものはしまわない。忘れ物はしょっちゅう。
中学生のときに編んだとかいうセーターを後生大事にしまってたりするけど、
みすぼらしいから時代遅れのものは捨てろ、って何度言わせるの。
あのさ、昔のカレシが買ってくれたんだかなんだか知らないけど、あんな煮しめた雑巾みたいな
くたくたの革の手袋、みっともないから新しいの買えば、ってオレは前から言ってたよね。
そもそも、君は、万事見切りが悪い。古い想い出とか、情とかしがらみにこだわってたら、
前に進めないでしょ。今を上手に生きたかったら、モノも感情もいらなくなったらさっさと断ちきる。
執着しない。あとさ、君の机の横に積んである古そうな雑誌だけど・・・・・・」

 この夫こそ、チテイジンにさらわれたら、私は果たして嘆願書を書くだろうか、と、
時々うすぼんやりと考える。
by office_bluemoon | 2010-10-09 00:24 | ほんの習作(掌編・エッセイ他)