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『下駄で歩いた巴里』 林 芙美子

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約80年前の日本の女性が、こんなにまで堂々とした一人旅をしていたとは。

『放浪記』がベストセラーになった林芙美子は、下関から連絡船に飛び乗る。
三等列車で哈爾濱(ハルピン)・西比利亜(シベリア)を経て巴里へ。
巴里と倫敦では下宿を借り、下駄の音高らかに街を歩く。

帰路のお金もこころもとないほどの、気ままな道行き。揺るぎなき
楽観主義に支えられた痛快な紀行集。
シベリア・ヨーロッパ旅行のほかにも
摩周湖、下田港、京都・奈良・大阪といった国内紀行も本編に収録。



哈爾濱であけびの籠を買ってそれに毛布や葡萄酒、
リンゴやバターやパンを詰め、西比利亜に向かう列車の三等車に乗りこむ。
ことばはもちろんできない。だが、そこで知り合う「随分と人のいい貧乏人」たちへの
まなざしは柔らかく、優しい。満州事変を前に情勢が緊迫する地帯を
夜もすがら列車は通り過ぎたときも、「私は戦争の気配をかすかに耳にしました。
空中に炸裂する鉄砲の音でしょう」と情緒に流れ過ぎることなく、
日記を綴っていく理知が小気味良い。

原稿をかかえて仕事はかどらず、「今日も終日無為、顔そむけたし」と呻吟する日々が
続くことも。それでも、旅を通して、書き続ける人生への覚悟をひとりごちている箇所の
凛々しさに、こちらの背筋も伸びる。

「人間は、捨身になって仕事に溺れるべきだ」
「小説を書いていると、恋びとが待ってくれているように愉しくなる」
「私はいったい楽天家でしめっぽいことがきらいだが、
そのくせ孤独を全我としている。私の文学はあこがれ飢えることによって、
ここまで来たような気がする。いまでも、私の目標は常に飢え、常にあこがれることだ」



食事についての記述は中々に痛快だ。
車中で「歯の砕けそうに冷たい林檎」をかじっていたかと思えば、
天津ではすきやきの買い出しをして仲間と肉をふんだんに食べ、
モスクワの一流料理店で高価な黒いイクラをごちそうになり、
巴里のホテルのサロンでコニャックを愉しみ、マルセーユでは
牡蠣にレモンをしたたらせて喉を鳴らす。

文明国家とはまだ目されていなかった戦前の日本に、
ヘミングウェイと同時代の巴里の空気を知り、こんなにも
磊落に本分をまっとうした女性がいた。
自分探し、などで答えがみつからないのを、不確実な時代や
経済の混迷のせいにすることはよもや、許されない、と思った。










(2010-B4-0121)




















林芙美子紀行集下駄で歩いた巴里 (岩波文庫)

岩波書店

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by office_bluemoon | 2011-01-24 00:35 | こんなもの、読んだ(本・雑誌)