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無用の用

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このエッセイは『無用の用』、という題を与えられて書いたものです。

この状況の中、そして今も続く災厄を考えたら
何とのんきで不謹慎な、というお叱りを受けたり、
不愉快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、これもあの日のひとつの事実です。
事態の全容が皆目わからないなか、
初めて遭遇する事態におののきながら
その晩考えたこと、そしてこの先も覚えておきたいこと、と判断し
ここに残すことにしました。





  「それでは、なにとぞよろ―」までタイプしたところで、目の前のモニターが真っ黒になった。

 かけていた音楽が途切れ、冷蔵庫のモーター音も止んだ。多くの人が述懐するように、
起こっていることがすぐには理解できなかった。

 そのとき私は自室でパソコンに向かっていた。地震の強さよりも、それが長く続いていることに慌てた。
バスルームに向かったが、壁に手をつかなければ歩けなかった。蛇口をひねる。ありがたい。
まだ水は出る。そこからバスタブはもとより、家じゅうのありとあらゆる容器―ラーメン丼にまで―
水を溜めだした。
 携帯ラジオを取りだして、周波数を合わせた。大変なことが起こったのを知った。
となると停電はすぐには復旧しない。アウトドア用グッズを物置から出した。額にバンドを巻いて使う
登山用懐中電灯や、マウンテンバイク用のヘルメットはこういうときに使える。アーミーナイフも
手元にあったほうが良い気がした。マッチやライター、電池やロウソクの残りも
チェックした。お湯がまだ出るから、湯たんぽも役に立つ。
使うとはとうてい思えなかったけれど、軍手とブルーシートも出してみた。
履きやすいスニーカーを一つだけ選んだ。
それらを部屋の真ん中に集めて、ちょっとした一泊遠征セットのような支度を整えた。
 携帯電話はずっと通じない。都内勤務の家人はきっと帰ってこられない。その朝のことを、
思いだそうとした。けんかはしていなかった。よかった。食材は、今晩ひとりぶんなら十分あった。
 そこまでやっても、何か備え忘れていそうな強迫観念のようなものに駆られて外に出た。

 街頭の拡声器からは、海岸に近付かないよう注意を呼び掛ける声が流れていた。信号機は停止し、
往生した車の列に、警官がホイッスルで指示を与えていた。コンビニの照明は消えていたが、
ぼうっとした人たちが三々五々集まり、携帯電話を片手にペットボトルやカイロをカゴに入れて
店内を徘徊していた。私も携帯カイロ二個とすぐ食べられる菓子パンをカゴに入れた。
さらにさんざん迷って、カップ麺を二個だけそこに加えた。
 家に帰ると、陽が傾き始めていた。あとは明るいうちにできることをやっておこう、と暗がりでの
歩行の邪魔になりそうなものを片づけた。毛布や上着、雨具も選んで部屋の真ん中のテーブルの上に
積んだ。夜は長くなりそう、と読みかけの本もその脇に数冊積んだ。万全のように思えた。
 それでもなんだか落ち着かなかった。あたりがだんだん薄闇に包まれ、遠くの方でサイレンが
聞こえ始めると、ますます部屋でじっとしているのが不安だった。私はふたたび帽子と
財布を掴んで、外に出た。

 さきほどのコンビニは、今度は見たこともないほど混んでいた。惣菜や弁当、パンの棚は
ほとんど商品がなくなっていて、レジの前には長い列ができていた。わざわざ戻ってきたくせに、
私には今何が必要なのかがわからなくなった。暗い店内で辛抱強く並ぶ親子連れや
女子高生たちをしばし眺めていた。


 結論からいうと、この晩最も役に立ったのは、二度目に買ってきたものだった。そして不謹慎にも、
予想よりも快適に停電の夜を過ごした。私が結局選び取ったのは、ウイスキーだった。
 なぜだか売れ残っていたスモークタンとチーズも買った。電池やカイロがない、水がない、と苦情が
飛び交う中、この三点しか買わなかった客はすごく浮いていたと思う。でも、私の理屈はこうだった。
この晩を境に世界がいったいどうなってしまうのか、いくら考えてもわからない。悩んでも事態が
好転しないのなら、この晩をやり過ごすことに集中しよう。それもできるだけ愉快に過ごそう、と思った。

 毛布を寄せ集め、湯たんぽを抱えて部屋の床に座っていた。ラジオからは、津波、とか、
首相の緊急指令、とか、原子力、とかなんだかH・G・ウエルズの『宇宙戦争』みたいな、
べらぼうなことばが錯綜し、知ったとて、今の私には救いにはならないことをやがて悟った。
その後はずっと、i-podでジャズを聴いていた。ロウソクの灯りで、本を読んだ。
 よりによってその時読んでいたのはスターリン時代のロシアを描いた本で、
しかも肺も凍りそうな極寒のロシア大陸を追手に追われたり飢えが続く箇所で、
虚構と現実の距離がそのときはあまり離れていないように感じられたのが辛くて、
よりによって、と、泣き笑いしたくなった。最初は集中できなかったけれど、
ウイスキーがまわってきて、やがて物語に入り込んだ。そのうちに眠りにおちていた。

 この晩こういうふうにしてこの本を読んだことは、ずっと覚えておかなければ、と強く思った。
危急の用を足せるものが揃っていたから、影響はこの程度であったからこう言えることでは
あるのだけれど。
 持ち物をミニマムにして、すぐに必要なものとそうではないもの、を同じ次元に並べて
置けなくなったときに、くっきりと寂しさを感じた。その寂しさがきっと、私を二度目のコンビニに
向かわせた。いの一番に必要なもの、と、すぐには役には立たない
一見無用に思えるものが混然と存在していたごく普通の毎日が愛おしく思えるようになったのは、
あの晩以降のことだと、私にははっきりと言える。
by office_bluemoon | 2011-04-23 01:03 | ほんの習作(掌編・エッセイ他)