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『ここではない、どこか病』

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 今日から風が違う、とわかる。そんな初夏の朝はよく、体中の細胞がスーツを着るのを拒んだ。
 会社員の頃、満員電車に乗るのも、毎日同じ場所に行くのも嫌だった。仕事そのものは
(たぶん)それほど苦行ではなかったが、この二つとは中々折り合いがつけられなかった。

 若いときには自分がもっと違う者になれるような気がするものだ。今ある自分、とは
まったく別の姿を夢見るのが当時の私の生きる原動力だった。それを向上心と呼んだり、
野心と呼ぶのかもしれない。
 今ここ、でないどこかに飛びだしたい。こんな気持ちのいい朝に、相も変わらず同じ場所に
行かなければならない生活なんて、もう嫌だ、と満員電車の中でいつも考えていた。このまま毎朝
吊革につかまって歳をとるなんて、ぞっとした。幸福は今いる場所にはない、と信じていた。
その場所をどうにかして探し出してここから飛び出さなければ、幸せになれない、と思いこんでいた。

 たまに外回り業務があった。携帯電話が登場する前の、のどかな時代の営業だった。
それが文句のつけようなく晴れた日だったら、午後三時くらいに都心部のアポイントを入れた。
そうすれば、打ち合わせは午後四時半くらいに終わる。社に戻るべき用事が発生してないか、
公衆電話から確認をとり、電話を切ったらそこから晴れて自由だった。肝心なのは、ここまでで
ちゃんと責務は全うしていることと、何も嘘はついていないこと。携帯電話やモバイルPCがある今では
こう簡単に音信不通にはなれない。文字通り白昼堂々、まだ空が明るいうちに繰り出すことを
自分で決める権利を、こうしてかすめとるのはささやかな悪だくみであり、抵抗だった。

 向かう先は決まっていた、地下深いホームまで小走りになる。海に向かって南下する電車の
四人がけのボックスシートを独り占めする。もちろん車内の人影はまばらだ。電車が地上に出て、
ビル群を後ろに見やり始めたら、買っておいた飲物のプルを抜く。本も読まず、
車窓の景色を眺め続けた。やった。音信不通だ。誰も私がどこにいるかを知らない。
都心から一時間足らずで、雲の形や緑の濃さが変わる。そんなちっぽけな冒険を断行した
自分のちっぽけな勇気にそっと快哉を叫んだ。

 海沿いに花火大会があることを予め調べてある時は、同じ海岸線の二つくらい手前の
小さな駅で下車した。ヒールを脱いで手に持ちストッキングの足で砂浜を歩き、
スカートのまま見晴らしの良い崖によじ登った。空と海の境目が溶けあいそうに
暗くなったころに手のひらよりも小さな花火が次々と海上に上がっては消えて行くのを眺めた。
遅れて届く音が遠さを語っていた。

 身を寄せる店がいくつかあった。そのうちのひとつは眼下に海しかない崎の突端にあった。
店主は平日にスーツ姿の私が現れても驚かなくなっていた。運が良ければほかに誰もいない
見晴らしの良いテラスで風に吹かれてものを考えるのが好きだった。何から逃げ出したいのだろう、
自分らしく生きられるのはいったいどこなのだろう。そこで考えたくらいで
答えなんて出るはずもなかった。今のままじゃいけない、という自己否定から始まる
マゾヒスティックな青臭い問いだった。刻々と空の色が変化する夕暮れからひとり食事をとり、
店主の手が空いたら他愛もない世間話をした。終電の時間を気にして促してくれるのも店主だった。
「もし逃しちゃったら、帰っておいで」と少しだけ心配そうに笑い、
なぜか時折トマトを持たせてくれて最後の客となった私を見送ってくれた。
 今思い返すとあれはあれで、幸福な護られた夏だった。

 月日は流れ、人生の舵をどうやらこうやら取ってきた。今では毎日電車に乗らなくてもよくなった。
同じ場所に毎日行かなくても済むようになった。それでも、私はここではないどこかがあるような気が
いまだにしてしかたがない。また別のどこか、をまだ探している。
 ときどき、携帯の電源を切ることがある。今では音信不通というのは特権的孤立。護るべき隔絶と
なってしまった。呼び出し音も雑念もシャットアウトして、雑踏の中の静寂に逃げ込むことがある。
雑踏から逃げ出していた若い頃とは逆だ。そのエアポケットのような場所で、ここではない次のどこか、に
ついて独り夢想する。今のままじゃいけない、という相変わらず自己否定から始まる
理想と現実の相克だ。
 これもいくら考えたって答えが出るはずはない。歳をとっていくばくかでも知恵がついたことが
あるとすれば、幸せはどうやら現状への肯定、内なる充足というものにあるらしいというのに。

 吹いて行く風に意味を問うふりをしても無駄だ。答えてくれない、だなんて風のせいにしてはならない。
 今、ここ、を愉しめること。そして身を置く場所を選べるしなやかさが内にあること。
 幸せはその両軸に支えられていることをいいかげん薄々気づいているはずなのに。
 
 それを世間では身の程を知る、というのかもしれない。それに抵抗してここではないどこか、を
私は懲りずに求め続けている。もはや若者ではないくせに、つくづく幸せになるのがへたっぴいな愚か者だ。
 
 「ここではない、どこか病」から癒えずに堂々巡りしている自分にたまにとってもうんざりする。
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by office_bluemoon | 2011-05-25 09:10 | ほんの習作(掌編・エッセイ他)