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訳書が出ます。 「あなたはなぜ『嫌悪感』をいだくのか」 レイチェル・ハーツ

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ご縁あって、書籍を一冊訳しました。
どちらかというと心理学系の、硬派なサイエンス読み物です。

ちょっとぎょっ、とする、ヤモリ(?)の表紙
(ご参考、で、写真後方にあるのは原書です)。
書店で見かけられましたら、お手に取って
ご笑覧いただけたら幸いです。

読み手を選びそうな内容につき、
訳者特権で、ここに訳者あとがきをご紹介します。

Amazonによると明日、発売になるようです。




訳者あとがき

 本書は、嗅覚心理学研究者であるレイチェル・ハーツ博士の二冊目の著作、
”That’s Disgusting”の全訳である(既刊の邦訳は「あなたはなぜあの人の「におい」に
魅かれるのか」原書房)。
 納豆やチーズといった発酵食品を好んで食べる人もいるのに、一方でそういった食品に
激しい嫌悪感を催す人がいるのはなぜか。唾液が口の中にあるときにはなんとも思わないのに、
そのつばをコップに吐き出してから飲み込めと命じられたら、なぜ自分の唾液でも
抵抗があるのか(恋人と交わす唾液混じりのキスはエロティックですらあるのに)。
若者たちはなぜ、わざわざお金を払って長蛇の列に並んでまで、デートのときに
ホラー映画を観たがるのか。女性が妊娠すると、どうして味覚の嗜好が著しく変わるのか……。

 このほかにも、古今東西の珍奇な食習慣から始まり、レディー・ガガのプロモーションビデオ、
子供の遊び、さまざまな恐怖症、禁煙キャンペーン広告の変遷、猟奇殺人、
穢(ルビ:けが)れの意識、食や性に関する究極のタブー(日本に関しては、北斎の有名な春画や
アダルトビデオ産業の活況)に至るまで、本書では驚くほど多岐にわたる事例のなかから
人に嫌悪感を抱かせる対象を取り上げ、嫌悪感のメカニズムを解き明かしていく。

 人はなぜ何かを毛嫌いするのか。人類は長い歴史の中で、苦手意識とどのように
折り合いをつけてきたのか。企業の宣伝、政府のプロパガンダ、選挙運動や裁判などは、
人の心の中に沸き起こる反発心、抵抗をどのように利用してきたのか。
 著者はこれらの問いに対する答えを模索するなかで、嫌悪感とはすなわち、
死の予感からできるだけ遠ざかっていたいという拒否反応のあらわれであり、人間が生き残るために
備わった能力であること、高度な知性と他者を思いやれる心を持つ人間ならではの
感情であることに気づく。

 本書は、嫌悪の対象にさまざまな角度から光を当てている。医学、心理学、犯罪史、広告や
マーケティング手法、法制度や社会制度、風俗における禁忌事項の変遷史、言葉が喚起する感情など、
硬軟取り混ぜたアプローチをし、章の主題を思いがけない仮説へと発展させ、
その仮説を次章に引き継いでいく。読者は、生々しい事例にときに気分を害し、
悲鳴をあげそうに(”That’s Disgusting !”)なることもあるだろうが、そこをこらえて読み進めていくと、
苦手意識について、今までとは違った捉え方ができるようになるはずである。
 かくいう訳者の私にも、生理的にどうしても受けつけられないものがある。しかし、本書を訳しながら、
嫌悪感情とは人間であるがゆえに備わった、サバイバルに必要な特性であることを知れば知るほど、
拒否反応による敗北感のようなものがしだいに薄れていく気がした。

 嫌悪感情の構造はシンプルではない。たとえば、ホラー映画や交通事故の現場などの
陰惨なシーンを前にしたとき、手で顔を覆いながら、なおも指の間からそっと見たくなる気持ちと
葛藤した経験はないだろうか。本書を手にし、苦手な箇所も読み飛ばすことなく最後まで
読み終えられたのなら、読了したこと自体がすなわち、嫌悪感には純然たる拒絶以外の要素も
含まれていることの証拠ではないだろうか。

 著者について少し説明しよう。
 レイチェル・ハーツは、カナダ生まれ。トロント大学で心理学の博士号を取得した。その後、
米国フィラデルフィアにあるモネル化学感覚研究所やブラウン大学などで、嗅覚が人間の感情や記憶、
行動にもたらす影響に注目し、嗅覚のスペシャリストとしての研鑽を積んだ。また、コカ・コーラ、
ペプシコ、プロクター&ギャンブル(P&G)、ケロッグ、花王、香水ブランドのコティといった
名だたる大企業をはじめ、多くの企業に対して食品・日用品のフレーバーやフレグランス(芳香)の
コンサルタントとして助言をし、人気を博している。二〇〇八年、そんな著者にひとつの転機が訪れた。
全米一汚くて臭いスニーカーを選ぶコンテストに、悪臭の権威、“悪臭特別審査員”として迎えられたので
ある。著者はこのとき、使い古して汚れきったスニーカーの臭いに対して、予想していたほど
自分が不快に思わなかったことに注目する。この経験を機に、嗅覚研究にひとつのキーワードが加わった。
“嫌悪感”である。以降、著者は嫌悪感を嗅覚研究テーマの中心に据え、現在ではブラウン大学で
“嫌悪と心理学”をテーマに教鞭を取っている。
 嫌悪感の研究を始めてからは、これまで培ってきた嗅覚に関する専門知識や経験が大いに役立ち、
彼女の嫌悪感研究はオリジナリティあふれるものになった。
 たとえば、匂いは目に見えず、周囲に立ち込める性質があるため、完全に排除することが難しい。
そのせいで嗅覚は聴覚や視覚などより記憶を喚起し、特に嫌悪感を引き起こしやすいことがわかった。
また、嗅覚も嫌悪感も生まれつき備わっているものではなく、経験や成長過程で学習していくもので
あることも明らかになった。

 日常会話では話題にするのもはばかられるような、人に不快感を与える対象やエピソードを、
著者はひるむことなく次々と俎上(ルビ:そじょう)に載せていく。人の心の暗部、奥底にある衝動の正体を
理知的に暴き、人間の行動の不合理さ、不幸な史実に見られる愚行の数々も、果敢に取り上げる。
 このように露悪的になるぎりぎりの線で議論を展開しているにもかかわらず、本書は一般読者向けの
サイエンス読み物としての品格と魅力を見事に保っている。この絶妙のバランスはひとえに、嗅覚研究の
第一人者としてのバックグラウンドと、嫌悪感情について発見し、読者に紹介することが楽しくて
たまらないというようすが伝わってくる、明るく、ウイットに富む語り口のなせるわざではないだろうか。
著者の生年月日はどこにも明らかにされていないが、ポートレートやインタビュー映像などで見る限り、
才気煥発で、研究者としてもちょうど脂ののった年代らしい。今後の活躍がとても楽しみである。
第一線で活躍する研究者の手による鮮度の高い科学読み物を日本の読者に紹介することができ、
翻訳者として大変光栄である。 

 末筆になるが、このように意味深くユニークな作品を翻訳する機会を私に与え、惜しみなくサポートして
くださった翻訳会社リベルの山本知子さんとスタッフの皆様、原書房の永易三和さん、監訳者の綾部早穂
先生に深い謝意を捧げたい。そして、励まし続けてくれた家族、かけがえのない友人たち、すべての
ご恩ある方々にこの場を借りて感謝の意を表したい。みなさんのお力がなければ、本書を訳しきり、
日本の読者の手元にお届けすることは叶わなかったはずである。

                     二〇一二年 晩夏の満月の夜に
                                                      訳者しるす。


  




「あなたはなぜ『嫌悪感』をいだくのか」 
レイチェル・ハーツ著
綾部 早穂 監修
安納 令奈 訳


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by office_bluemoon | 2012-10-09 11:21 | 訳書