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京都考2冊:『イケズの構造』・『都と京』

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2015年の『新書大賞』を受賞した「京都ぎらい」が次の読書会課題。
ネット書店でも品切れが続き中々届かなかったので、到着待ちの間、類書2冊を読む。
京都生まれ、東京生まれ、2人の著者からみた京都比較文化論、
これが、2作とも京都愛あふれる良書だった。


「イケズの構造」入江 敦彦

入江氏は京都市西陣の生まれ。髪結い屋の長男に生まれたが、現在は英国在住。京都弁ネイティブとして、
「イケズ」とは何か、というテーマを軸に、京都気質を論じる。

「イケズ」を標準語に置き換えると、「意地悪」とか「皮肉」だとずっと思っていた。まず、そこからして
認識が違っていた。これを読むと、人付き合いに欠かせない、緩衝材といってもいいらしい。ならばなぜ、
京都人はイケズを言わなければならないのか。この点にこだわって「京都人ならばこう言われたらこう返す」、
という受け答え例文集(?)を素材に、言外の含み、イケズと非イケズのあわいに切り込んでいく。

この本で最も面白かったのは、清少納言や紫式部の時代だったら京都弁でこんなふうにしゃべっていた、と
翻訳するくだり。「春は曙」も、「春いうたら曙やね」になるし、光源氏を巡る恋のすったもんだも、京都弁に
したとたんにセリフがリアルになる。そうか、彼女たち、彼らはネイティブだったともいえる。
現代語を飛び越えて、京都弁をしゃべらせてみることは思いつかなかった。

著者によると、紫式部はイケズのきわみで、清少納言はそうでもない、のだという。分析は平安の才女に
とどまらず、利休は筋金入りのイケズ、という仮説のもと、秀吉との確執をひもとく。海外にも生息していた
イケズの筆頭は、シェイクスピア。あのハムレットの名セリフも京都弁だと、「どないしょー、
どないしょかなあ。……どないしよォ?」というのは、蓋し、名訳。

京都人の心理をえぐりながらも、イケズという生き方を肯定しているさまが小気味良いのは、筆者がいま
海外から日本を、京都を眺めているからだと私は考える。イケズを肯定し、インサイダーでありながら
それを客観的に笑える遊び心から、私たちが学べることはたくさんある。




「都と京」酒井 順子

2冊目は、エッセイスト酒井順子さんが、東京人の目から見た都市比較論。「始末とケチ」、「綿矢りさと
金原ひとみ」、「俵屋とコンラッド」、「『はる』と『らっしゃる』」などなど、非常に興味そそる章立てで、2つの都市を
対比する。ここでも、「源氏物語」が俎上に乗り、紫の上が明石の君に惹かれた展開に見る、京都人が「鄙(田舎)」に抱く畏れについて考察を展開する。
この伏線があってこそ、最終章の「京女と東女(あずまおんな)」のこのくだりが活きてくる。

この京女と東女の違いは、「先を見越す能力の強弱」から来ているのではないかと、私は思います。
東女というのは、「今この瞬間、幸せになりたい」のです。(中略)対して京女はもっと先のことを考えています。
歴史の中の一コマとして息、次の世代にバトンを渡すために存在する自分という意識があるのでしょう。
目先の幸(さいわ)いや快楽を取ろうとせず、一時的な感情を呑み込み、したたかなまでに耐える。
(中略)「今この瞬間」を大切にする東女は、刹那的で、無常感を抱えているように感じられます。
もちろん、年に生きる者の常としてその手の感覚を私たちは持っているのですが、しかし私は、
実は京女の方が、東女よりももっと深い無常観の中で生きているような気がするのです(p.245~p.246)。


京都への憧憬はそのままに。東京人である自分を否定せずに、2つの違う文化圏を
タイムトラベラーのように行き来できる喜びに溢れている軽やかさが、いい。
さすがは息の長い、エッセイの名手。
























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by office_bluemoon | 2016-03-09 21:43 | こんなもの、読んだ(本・雑誌)