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"A Moveable Feast" (『移動祝祭日』 A.ヘミングウェイ)


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確保したすまいが
ほんのささやかな屋根裏部屋だったとしても。

風が吹き抜けるカフェと、気持ちのよいバーと、
気の利いた本屋がある。
絶望なんて味わったことのないふりをして
ポケットに夢をたくしこんだ表現者たちが
集っている。

まだ20代だったヘミングウェイが
ジャーナリズムに決別を告げ、
生活のためではない文章で
身を立てられることを信じて
居を構えたパリはそんな場所だった。

猟銃自殺の2年前、
ノーベル文学賞受賞3年後に
書かれた短編集。
パリ在住7年間の中で、
『日はまた昇る』にまだ加筆していた頃。

この時代を共有した名前を見ると、
パリは祝祭日どころか神の恩寵であり、
選ばれし者の楽園さながらだ。

ピカソ、ジェイムス・ジョイス、フィッツジェラルド
(『ギャツビー』ヒット後の苦悩の時期)や、
ガートルード・スタイン、T.S.エリオット、ジョルジョ・シムノン。
払えるときでいいから、と
読むべき本を惜しげなく与えてくれた
シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の店主
シルヴィア・ビーチとの交流は人情味溢れ、
妥協なき文章を追求して生きようとまなじりを決した、
ヘミングウェイ青年を勇気づけてくれる。

薪を買うのもためらうほど、
生活は逼迫していた。
それでも魂は、懐の心もとなさに
おびやかされない。

「書くための生活」に徹しようとする
曇りなきいちずさ。
何でも吸収しようとする息づかい。
午前中はカフェオレを片手にカフェで執筆する。
初冬の冷たい雨にかじかむ心と指を、
ラムであたためる。
空腹のときほどセザンヌを理解できる、と
美術館に飛び込む。
パンとワインと本を持ってセーヌ河岸で
日がな釣り人を眺めては、もの思いに耽る。
筆がはかどった達成感で
白ワインと牡蠣に酔いしれる
短絡的な磊落さも愛おしい。

若竹のように青々しくまっすぐで、
迷いのない端然さ、
未来に突き進む姿が眩しく、
胸が痛んだほど。


貧しくとも、こころざしが明確だった若き日。
ノーベル文学賞を受賞し、
物書きの人生で望めるものは
およそすべて手に入れたかと思える男が
最期に振り返ったのは
まだ何ものにもなっていなかったパリの日。

あの時間は夢だったのか。
最晩年のヘミングウェイが不調の身体に鞭打って
今一度その手でなぞろうとしたほどの、
美しすぎる奇跡の素描。







ヘミングウェイが友人に送った言葉。
   
"If you are lucky enough to have lived in Paris
as a young man, then wherever you go
for the rest of your life, it stays with you,
for Paris is a moveable feast"

  もしきみが幸運にも
  青年時代にパリに住んだとすれば
  きみが残りの人生をどこで過ごそうとも
  パリはきみについてまわる
  なぜならパリは
  移動祝祭日*だからだ

  福田 陸太郎訳

(* 日付の決まっているのではなく、イースターのように年によって日付が変動する祝祭日のこと)













私的メモ:

あらためてヘミングウェイの文体に向き合う。
単語は平易で、潔く簡潔かつ
射るがごとく鋭敏。
繰り返し読み返したい、歯ごたえのある美文。
先達たちの偉業に敬意を表して、
邦訳もぜひ、複数バージョン手元に揃えるべき。
by office_bluemoon | 2010-05-08 00:58 | こんなもの、読んだ(本・雑誌)