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『何を見ても何かを思い出す』 アーネスト・ヘミングウェイ

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原題 "I Guess Everything Reminds You of Something"。
タイトルはもちろん、装丁にも惚れこんで買った
(現在この装丁は絶版)。
できるだけ海を感じられる場所で読んだ。

生前ヘミングウェイが発表した作品には
含まれない、いわば選外集。
没後編纂された全集の未発表短編七編を全訳したもの。

推敲を重ねる前のラフ作品とはいえ、さすが。
句読点とて極力排除して
「一つの真実の文章」を生みだそうとした
軌跡がじゅうぶんにうかがわれる。
余分な比喩や形容詞を使わなくても、
たとえば会話文だけでも場の緊張を伝えられる技の
恰好のテキスト。

翻訳はエルモア・レナードの一連の作品でも
名高い高見 浩氏。
ヘミングウェイが日本語で語っていたらこうなるだろう、と
思えるほど違和感がない。
原作者と翻訳者の幸福で希有なマリアージュ。

この中で最も印象的で、ヘミングウェイと
高見氏両者の息がぴったりと合っていたのが、『異郷』。

小説家である中年の男と、
誰もが振りかえるほど美しく若い娘が
車でフロリダ半島を北上する道行を綴った中編。

男への思慕を隠さない、胸が痛くなるほど無邪気な娘。
スペイン内戦の戦況と家族への責任、そして娘への愛。
あるいは幼さゆえの娘の愚直さへの嫌悪感。
揺れる、男の心。

娘にとってはそれが永遠の始まりだった。
男にとってそれは何度も味わったおさだまりの終焉の兆しだった。
娘が恋の成就に酔いしれるほど、男の心に影がさしていく。
男はひとり、その影を振り払おうと、呻吟する。
海辺で、酒場で問わず語りを重ねる。

愛をことばで確かめようとする娘。
愛をことばで繕うことが優しさだというのを信条とする男。
男の言葉には最初から、自覚のある嘘が交じる。
カウンターに座って娘にアブサンの味を教える男。
酒が身体にまわるほどに、二人の会話のズレが
ことばでは埋めようがなくなっていく。

物語は、実際にヘミングウェイが体験した
スーツケース紛失事件を男が語り、唐突に終わる。
あとがきで訳者の高見氏はこれを
「『自らを語りすぎたことの危険』を感じたのではなかっただろうか」と
分析する。
最初の新婚時代、妻がこれまで書きためた
長編・短編・詩の原稿すべてを入れた
スーツケースを盗まれてしまった事件の顛末を、
読者はヘミングウェイの口から聞くことになる。

心血注いだすべてを喪ったと思った。
ただ枕を抱き、横たわるしかない絶望。
ものを書く者にとっては、致命的ともいえるこの事件から
どうやって立ち上がれたのかを語る男の言葉は意外なほど明るい。
先ほどまで、目に涙を浮かべた娘を前に終焉の予兆に怯えていた
ふがいなさは、そこにはない。
男にとって、原稿紛失事件は創作活動を続け、成功を重ねることで
乗り越えることのできた絶望。
娘との間にあるのは、
男が未だ埋められない(そしてきっと生涯埋められなかった)
虚無。

大人の証(あかし)は、何か。
少なくとも、若者では及びがつかないものとは何か。
それはどれだけの空虚と向き合い、
どんな流儀で折り合いをつけてきたか、と
いうこと。
そして、そういう術を身につけてしまったことに、
寂しさを感じてしまうことから、
人は決して逃れられない。





(2011-B28-0509)

































蝶々と戦車・何を見ても何かを思いだす―ヘミングウェイ全短編〈3〉 (新潮文庫)

アーネスト ヘミングウェイ / 新潮社

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by office_bluemoon | 2011-05-10 11:46 | こんなもの、読んだ(本・雑誌)