『グルメなんていやだ』
前回変なお題ばかり、と文句をいっていたら、
それが聞こえたかのように、こんどは『グルメ』。シンプルなのに、苦しんだ。
シンプルであるだけに、説明しすぎても野暮だし、
説明が足りないのもまたひとりよがりで。
中々書けないのは、お題のせいじゃなかったらしい。
与えられたテーマありき、ではなくそろそろ、
書きたいこと先行で、自主的にだったら書けるのだろうか。
要検討。
今度のお題こそ書けない、と追い詰められた。なぜ書けないのか、と考えた。
答えはすぐに出た。『グルメ』という言葉に抵抗があった。
『グルメ』というものは選択肢が多い環境で初めて成立するものだと思う。言い換えると、
ふんだんにある中から選べる、お膳立てされた余剰や飽食の中にあるものだということ。
困窮や渇望といった言葉とは、『グルメ』という言葉は両立しない。偏見かもしれないけれど
私には『グルメ』という言葉に、採取、捕獲しなければ食糧が得られなかった人間の
本質のようなものが感じられず、どうもなじめない。
「空腹とは最上のスパイスである」と諺にあるように、美味しいものとの体験は、
欠乏感や飢餓感とセットだ。誰しもこんな食体験があると思う。部活の夏合宿お昼の定番、
具なんてまばらなカレー。海外から戻って空港で食べる天ぷら蕎麦。雪山のカップ麵。
病気や入院での食餌制限から解放されて食べるカツ丼。キャンプでやっと熾した火で作る、
大味の豚汁。困難や不自由な状況を潜り抜けた食事ほど、味の記憶は鮮烈になり、
長く心に残る。忘れがたい食事になる。
私にとってその最たるものは、白いご飯かおむすびになる。「人生最後の晩餐は?」という
他愛のない質問をされたら、白いご飯と味噌汁と香の物、は不動の答えだ。どうして
そうなったのかを振り返ってみると、幼い頃、海外で不自由な中暮らすことになったときの
経験が原初にある。
学校給食などもちろんなく、お弁当だった。今ほど日本食が流通しておらず、あっても
入手困難で我が家には途方もなく高価だった。日本の白米で握ったおむすびなど夢のまた夢で、
さらさらとした細長い現地米が口にどうしても合わなかった。そのうち、担任の先生が
心配するほどひょろひょろに痩せてしまった。お腹を壊して保健室で寝てばかりいた。
慌てた親が無理をして日本の白米を調達してくれた。
朝、その白米を台所で母が握っている間じゅう、母にまとわりついた。ほかにおかずに
何があったかなんて、覚えていない。ただ、手にとってもポロポロと崩れない、
白いしっかりとしたおむすびが三つ、今日はカバンに入っていることを世界にふれまわりたいほど、
息はずませてその日学校に行ったのを良く覚えている。
手に入れるまでに絶望的な渇望があればあるほど、
その食事体験も味も忘れがたいものになる。へだたりや困難、障害があればあるほど。
書いてみて、これは、恋愛にも似ている、と気づいた。
なるほど、確かに、私は『グルメ』などではないのだと思う。
by office_bluemoon
| 2011-09-30 08:39
| ほんの習作(掌編・エッセイ他)