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麻のシャツ

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 低気圧が近づいていた。夜風は湿っていた。遠くで雷が聞こえたが、
まだ雨は降っていなかった。

 男が現れた。脱いだ上着を手に持っていた。
 薄暗い店の入り口の照明に照らされて顔が浮かび上がった。
 笑顔だった。ボリュームを絞って店内にかかっていたピアノトリオの音が、
とつぜん冴えて響いたような気がした。
 前会った時よりも日焼けが濃く、彫りが深く見えた。シャツが白いせいだ、と気づいた。
皺のぐあいで上質の麻だとわかった。趣味がいい、と思った。それを口に出しかけて、
思いとどまった。

 男は私の横に座りながらバーテンダーにビールを注文した。よれよれのハンカチで
額をふいていた。
 汗と、ムスクと柑橘系の混じった風がふっと届いた。

 「待った? 何飲んでるの?」
 「ううん。着いたばっかり。 これは、ジントニック」
 「あんまり可愛くないな」
 「パイナップルとチェリーとパラソルの刺さったピニャコラーダ、
なんてもう似合う年齢じゃないし」
 「飲めばいい。ピニャコラーダ。プールサイドだったら好きなだけ」

 『プールサイド』、と聞いて鼻の奥がツン、とした。塩素の匂いを思い出した。
返事をせずに、口元にグラスを近づけた。氷が小さく音を立てた。カウンターの上に置かれた
男の筋肉質の腕にそっと目をやった。無造作にシャツの袖をまくりあげていた。
 繊維のさらりとした感触や、風をはらむ軽さを想像した。自分で選んだのだろうか、と
気になったが、それも尋ねないことにした。大学の同級生だった。15年ぶりくらいに
ひょんなきっかけで再会した。それぞれ結婚して、離婚していた。5週間に一度くらい、
飲みに行ったり、食事をするようになった。夏休みの予定をそれとなく尋ねられていた。
 何かを決定づけるのも、予感めいた何かを壊すのも嫌だった。
 私はどちらつかずの返事を重ねていた。

 「シャツ、麻だね」
 「あぁ。毎シーズン、必ず二、三枚買ってる」
 「ほんとう? 私も! 毎年、『今年の麻シャツ』を見つけるのが好きなの」
 「へえ。そうなんだ」

 毎夏、麻のシャツを一枚、吟味に吟味を重ねて買うことにしていた。白無地が一番多く、
カナリアイエロー、生成り、スカイブルー、ショッキングピンク、ストライプ、と、色・柄の
バリエーションを楽しんでいた。素材の質感がすべて。余計な飾りは、一切排除した。
女ものよりも男もののほうに、イメージどおりの、媚びないシャツを見つけることが多かった。
 ステッチの位置、袖の長さ、襟の形・大きさ、身幅、シャツ丈、すべて違った。
それぞれに、選んだときのこだわりがあった。色は顔映りを考えて、慎重に選んだ。
 店員の目を盗んで、布地をぎゅっと握り締めて、皺の入り具合も、チェックした。

 何軒でも見て歩いた。これだ!という一枚に出会うまでは、秋の気配が訪れても
妥協しなかった。宝探しにも似た、真剣な夏の行事だった。

 そうやって集めた麻シャツはなかなか捨てられない。10年以上着続けているものもある。
生地のくたびれたようすさえ生き方の一部に思え、愛着があった。数が増えることはあっても、
減ることはなさそうだった。
 
 「その年の、究極の一枚を選ぶことにしているの」
 「でも、なんで麻シャツなの?」
 「キャサリーン・ヘップバーンとか、マルチェロ・マストロヤンニみたいに、シャツ、
それもたぶん麻のシャツをきりり、と着た大人に、子供の頃からなりたくてたまらなくて。
そういう永遠の憧れ、ってない?」
 「うーん、特にない。しかし、相変わらずだなぁ、そういう思い込みの強いところ。
涼しいのと、アイロンをしなくても格好がつく、となると、
やっぱり綿じゃなくて麻になる。俺はそれだけだよ。
シャツ全部にいちいちアイロンをかけてくれるような女房もいないし」

 男は私の方をあまり見ずに、笑いながらビールグラスを飲み干して、もう一杯、とバーテンダーに
指で合図した。服装に無頓着だとうそぶいているのか、ただの不精なのかを見極めかねて、
私は黙っていた。

 「そうだ、だったら今年の麻のシャツ、俺が選んでやる。プレゼントする」男が言い出した。
 「どうして?」 
 「ぴったりの一枚を探してあげる。そうだなぁ、真っ赤なんて似合うんじゃないかな」 
 返事をせずに、バーテンダーの後ろにある棚に並んだボトルのラベルを読んでいるふりをした。
 喉の奥が苦くなった。ジントニックの水っぽさが急に気になった。赤は、自分では
決して選ばない色だった。

 「それをさ、水着の上にふわっと着てウエストで裾を結んでいるの、ってよくない? 
絶対、似合うと思う。ビキニを着ろとはいわないけどさ、絵になるよ。うん、赤にしよう。
とびきりの赤を探してあげる。プールサイドで、デッキチェアでピニャコラーダを飲めばいい。
そうだ、今度、プールサイドで待ち合わせようか。そういえば取引先からさ、
プールのビジター券もらったんだ」

 男は熱を込めて一気にしゃべった。都心にある高層ビルの名前を言った。
私の返事を待っているわけではなかった。

 屋内プールなんて人工的な場所は好きじゃなかった。塩素の香りが鼻腔にまた、蘇った。
風の吹き抜けない空間の、じめっとしたタイルの壁が醸しだす圧迫感を思った。息が苦しくなった。
そんな場所で赤い麻のシャツを着てピニャコラーダを飲んでいるところを思い浮かべてみた。
後頭部のあたりも重くなってきた。

 ふと目を伏せた。椅子に置かれた鞄のポケットから、男の携帯電話が少し見えた。
ストラップがついていた。色あせた薄紫色の組紐が結ばれた木片のようなものの上に、
黒い文字で何か書かれていた。消えかかっているけれど、『おみくじ』と読み取れた。
その木片の後ろにもうひとつ、小さな布袋も見えた。『・・・内安全』、という三文字が見えた。

 私のグラスは空になっていた。
 今、駅に向かえば雨に降られない。それとも、たまには我を通すのをやめたらどうなるのだろう。

 いずれにしても、愛着が執着に変わるサインを私はどのへんで見失ったんだろう、と考えていた。
by office_bluemoon | 2012-06-20 00:05 | ほんの習作(掌編・エッセイ他)