Peace Hiroshima 2013
<原爆ドームを臨む相生橋のほとりに並ぶカフェ。2013年7月撮影。>
今年のPeace Hiroshima 2013は、
あの日、原爆の爆風を浴びた、河本明子さんのピアノを東京に迎えて
8月3日(土)に開催されました。
当日、詩人として詠んだポエトリー・メッセージを、備忘録としてこちらに残します。
***
このPeace Hiroshimaというイベントは、
被爆二世である、主催者の高田雅宏さんが
こんなことに出会ったいきさつから始まりました。
アメリカのスミソニアン博物館にあった日本への原爆投下の展示で
広島と長崎の地名が取り違えられていました。
さらに、アメリカでは、太平洋戦争の終結を
こんなふうに教えていることがわかりました。
原爆投下は『戦争が日本本土への地上戦に持ち込まれ、
被害や、死者がこれ以上甚大になることを阻止するための
『トルーマン大統領の英断』だったのだと。
このお話を聞いたときに、ふと思いました。
そもそも、太平洋戦争の終結は、
学校でどのように教えられていたのだろうかと。
「常識」だと思っていることは、どんなことばで伝えられていたのかを。
世界史の教科書を取り寄せてみました。
2006年検定、のものです。
チャーチル、ローズヴェルト、スターリンによる日独伊三国同盟の締結から、
広島の原爆投下までに、見開き2ページほどが使われていました。
そのくだりを読んでみます。
「太平洋戦域では、アメリカ軍が1944年中にサイパン島とフィリピンのレイテ島を、
45年2月にはマニラも奪回し、4月沖縄本島に上陸した。
同時に日本本土への爆撃を強めたので、主要都市や住民は大きな被害をうけた。
4月にローズヴェルトが急死したため、大統領に昇格したトルーマンは、
7月チャーチル・スターリンとポツダムで会談し、ドイツ管理問題を協議するとともに、
日本の降伏を求めるポツダム宣言を発表した。アメリカは8月6日広島に、
さらに9日に長崎に新兵器の原子爆弾を投下して、両市を壊滅させた。」
実にさらりとしています。
あらためて、さまざまな資料をひもといてみました。
戦時中の日本が潜り抜けた狂気の時代、
欧米列強やソ連、帝国主義の行状について。
確たる根拠もない人種差別、アジア人、とくに
日本人は害虫以下だ、と考えられていたこと。
カミカゼ特攻隊。
中国大陸、アジア植民地で報じられる悪行の数々。
現在も残る、反日感情。
虐殺・略奪・レイプ。
日本が参戦した戦争は
それほど、昔のことではありません。
あらためて考えます。
歴史とは、なんだろう。
真実とはなんだろう。
先月、こんなところを訪れました。
ドームのある広島記念公園からそれほど離れていない、
広島駅からバスで10分、そこからさらに徒歩で15分くらいのところに、
小高い山があります。
その山頂近くに、
戦後にアメリカが原爆傷害調査委員会を設立し、
現在は日米が共同で運営している
研究所があります。
「放射能影響研究所」という財団法人です。
施設を見学しました。
1時間ほどマンツーマンで丁寧に説明していただいたこと。
公式見解を要約すると、こういう内容になります。
「原爆被爆者など12万人の寿命調査は世界でも例がなく、
この研究は世界に多大な貢献をしている。
そして、長年の研究の結果、現在わかっているのは、
少なくとも親が受けた放射線によって病気や障害などの異常が
増えるという結果は今のところみられていない」
「あたりまえ」だと思い込んでいる知識、
反対に、公の見解、というものは、
ひょっとしたら
実にうつろいやすい、あまりにももろいものなのかもしれません。
ゆるぎないのは、こういうことだけかもしれません。
1945年8月6日の午前8時15分に、
広島が、そして9日に長崎に原爆が投下されたこと。
そして、そのほとんどが兵士ではない人々が
一瞬にして命を奪われたり、苦しみながら、時間をかけて、亡くなっていったこと。
人の、未来と命が奪われたこと。
戦争とは、そういう理不尽な暴挙であること。
歴史について考えるときに、
忘れられない
社会科の先生がいます。
中学校の遠足のときに
先生はわたしたちに奇妙なことを、言いました。
「明日の遠足だが、先生はみんなに『気をつけ』、『前へならえ』の号令をかけない。
各自が自分の行動に注意を払うように」。
なぜでしょう?
わたしはそのとき、フィリピンのマニラにある日本人学校に通っていました。
遠足の行き先は、「バタアン半島」。
第二次世界大戦中、日本軍が、
米兵とフィリピン人の捕虜を炎天下、収容所まで
100キロもの道を歩かせ続けた場所です。
この行進で
1万人近くの死者が出たとされています。
わたしたちの遠足は、その慰霊碑の立つ地を訪れることでした。
古びたスクールバスで、遠出をしました。
少し鈍い色の空、青々と広がる海。
一見、どこにでもあるさびれた岬の風景でした。
ですが、かんじんの慰霊碑のかたちは、記憶に残っていません。
覚えているのは、
ふだん深く考えずにやっていた『気をつけ』、
『前へならえ』の号令が、
人々に暗い歴史を思い出させてしまう、ということ。
それをやったとたんに、現地の人がこぶしを振り上げてわたしたちを
襲ってくるかもしれないんだ、という緊張感でした。
この遠足から学んだ最大のギフトは、
こんなことだと思います。
「教科書には書かれていない現実もある、
ならば、自分の目で見て、感じて、考えるしかない。
提示されたことをうのみにしない、ということ。」
差し出された情報が唯一の真実である、
自分たちだけが、目覚めているのだと、錯覚する
ごうまんさ。
単一的な思考を押し付ける圧倒的な力、それこそが
戦争の狂気を生んだように思います。
いえ、現在形に直します。今も、狂気を生み続けています。
兵隊ではない、ふつうのひとびとの幸せや生活を脅かす
大きな力、というのは、決して過去の脅威ではありません。
形を変えて、さりげなく、ふつうの生活の中に
ひそんでいます。地下鉄の壁や、
ポストにすべりこんだ請求書の金額にも。
ひょっとするとスマホに表示される画面の中にも。
本日、広島からここにきてくれた、明子さんのピアノもそうです。
原爆資料館に所蔵されている、亡くなったかたがたの腕時計や肌着、
お弁当箱といったものが、わたしたちに訴える
メッセージはひとつだと思います。
わたしたちから、
問答無用で、すべてを奪うのが、戦争です。
ものを考えさせず、
言葉を言わさず、
想像力をはばたかせることも禁じる、
絶対的に安全なユートピアがあるかのように
声高に叫ぶ大きな力には、
用心しなければいけません。
自分のあたまで考え、想像し、ノーだと信じることには、
ノーといい続ける。
行動にまさるものはありません。ですが、
ことばは無力ではないと思います。
伝えようとすること、そして耳を澄ませることが大切です。
ことばや、歌、ダンスや音楽などさまざまな手段で
表現し、考えを述べること、想像力の翼を広げることは、
決して無駄なことではありません。
一番危険なのは、
「みんながそうしているから」、と自分の頭で考えるのを
放棄して、他人のいうことを、権力を握る者の主張を
鵜呑みにして行動することです。
みんな、っていったい誰?
わたしは、こう思う。
あなたは、こう思う。
持ち寄ったものから、新しいことが生まれます。
ノーだと信じることは、ノーだといい続けていこう。
自分のやり方で。
平和なやり方で。
同じ間違いを繰り返さないために。
最後に、絶望することはない、とお伝えします。
さきほど挙げた、2006年検定の教科書のなかに、
わたしは明るい光を見つけました。
テキストのはじめに、【世界史のなかの子供たち】という章がもうけられています。
その、結びのことばです。
【世界の子供の生き方に、なぜこのような差が生まれたのだろうか。
わたし達とはちがう生き方をしている世界の子供たちが、
今どんな境遇におかれているのかを、ユニセフのホームページなどを
手がかりに調べてみよう。そして、それぞれにことなる子供たちのありさまが、
どのような世界史の流れから生じた結果なのか、考えてみよう】
Nobody talks, nothing changes.
誰も話さなければ、何も変わらない。
***
by office_bluemoon
| 2013-08-09 08:54
| こころ、泡立つ(events)